2022
10.30

お寺の小冊子に乗っていたワンカットであります。

孫がゲームしているのを見守りながら、縁側の陽だまりで新聞を眺めている。
孫の母親は、買い物でしょーか。
浮気でしょーか。
それともパートで働いているのでしょーか。
そんなことは「どーでもいい」世俗を超越し背を丸めて老眼鏡をかけた老人。

このよーな老後は、私メは無理でありますです。
というか不可能でございましょー。

書斎で占いをまとめているか、老いてもお女性と戯れてしまうことになるのでございます。

しやわせという価値判断を、占いでは、
「地位か」
「経済面か」
でしか図ることはできません。

貧しくても心が豊かだ、という場合は、占いではそれを不幸と断ずるしかできないのであります。

つまり、精神的なしやわせを図るメモリを占いは搭載していないのでございます。

けれど、数理術を用いれば、たとえば、自分の努力と、持って生まれた社会的評価の差異によって、その精神的ななかに分け入ることも不可能ではございません。

そして、これに家庭内の模様を加えることも数理術では可能であります。

頑張っても、なかなか社会的に認められない男が、家庭内では暴君となるのか、それとも妻からも軽んじられるのか…とか。
いくつかのパータンがありまして、
「なるほどなぁ」
と合点が行くのであります。

私メの場合は、晩年は、孤独。
自分では孤独だと思わぬだけ救いがありますが、孤独には違いないと出ますです。
調候用神法を用いても「孤独」の二文字から脱することはできません。

「いまのままで良いのだ」
居直ることにいたしましたです。