2023
01.28

モリオカに着いた今週の火曜日、メールがございました。
「家の鍵を失くしました…10日前に。」
意気消沈の文面。
ノブごと替えるとなると、とてもお金がかかるというよし。

鑑定の依頼ではございませんから、いつもなら捨て置くのでございます。
が、ここはモリオカ…というわけではないのですが、
「やってみるか」
神蓍を手にし、
「住む処無くして将に其の棲む処を生ずべし、乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤!」
私メの呪文でございます。
神蓍はゆっくりと円をなし天道のゆくところをなぞり、中天の、その棲む処に達したとき、
「!」
六個の骰はそれぞれの回転を、ピタリと止めたのでございます。
残心。
蓋を開けました。

出た卦は天火同人の上爻変、革之でございました。

「出てくる」
断はすぐに閃光しましたです。

依頼されたのではなく、私メが勝手に占じたのでございますから、鍵を失った相手は上爻の△(応爻)。
そして鍵は、五爻に伏している卯父。
いま、鍵の父母は、申才に圧住されております。午日で、火剋金と申を剋去出来るのですが、申は空避。日晨の剋が効きませぬ。どころか填実。すぐには出て来ぬ。

また10日前に失くしたわけで、10日前の空亡は戌、亥。
応爻は空亡の時期。初上空亡でもございます。ボンヤリしていたのか。お疲れなのか。
また子孫が官鬼に変わっています。悩みが深刻なご様子。

しかし、鍵の卯父母は応爻の戌孫と合。
さらに卯父母は、飛神の申に絶。ところが、上爻の化出の亥に長生。これ、「絶処逢生」也でございます。
「出てくるであろー」
と返事のメールを出しました。

そして、本日、丙戌日に、「バッグのサイドポケットに挟まっていました!」との鍵、発見のお知らせ。
卯ー戌の合に応じたのであります。

さて、用神を伏している父母といたしました。
が、断易の理論家は、これに疑問を呈するでございましょう。
「家はたしかに父母だ。しかし、鍵は家に入るためのものだから官鬼ではないか」と。

けれど実占家は、出た卦でも判断するのであります。
失ったのだから伏している卯の父母と取るのが妥当なのであります。

用神の取り方は、一応は理論的に覚える必要がございます。
しかし、覚えたからと言って、その通り都合よく卦に出るモノではございません。

でも、私メの蹉跌は、そーいうところではなくて
「卯」をバックのサイドポケットと気づかなかったところにございます。
この文字は、まさにサイドポケットの形をしているではございませんか。

「ウンチと一緒にありました」
ウンチとは年末に希望者にお配りしたカードのおまけの「イザという時に灯す」マッチのことであります。
慰めにもならないのでありました。
…ウンチを擦ろうとしたら、もっと早く見つかっていたかも。

2023
01.27

溶けた雪が午後になって滴が凍結しているのであります。
儚い宝石でございます。

手のひらに乗せて温めてはならない宝石なのであります。

占いは時間という軸を基本に理論を展開いたします。
生年月日とか、占った時の月や日付。
それに磁気の考え方を加えたものが奇門遁甲でございます。

磁気は、「気」と同意語であります。
場所を移動することは、別の「気」で刺激を受けることなのであります。
「いつ」「どこへ行ったか」
この二つの軸で吉凶を判断するのが奇門遁甲であります。

多くの質問の中に、
「旅行の帰りの方角は気にしなくても大丈夫ですか?」
がございます。

そんなことを考えていたら、職場からおちおち帰って来られないではないか。
などと胡麻化して答えとしていたよーな記憶がございます。

自宅は原則として慣れ親しんだ「気」があるのであります。
異なる気を受けることによって、本人の体質が変化するのが奇門遁甲の基本的な考え方でありますから、
「凶方位でも別に気にすることはないですねぇ」
心ではそう申し上げているわけであります。

反論はあるでしょう。
「奇門遁甲は時と方位の配合で決まるからには、自宅でも気が変化するのでは」
「悪い方位で帰ったら、やはり悪いことが起きました」

世の中は90%は悪いことが溢れているのであります。
良い方位で帰ったら、では良いことが起きましたか。

いやいや、良いこと悪いことという観念が、奇門遁甲を使う時の問題として浮上してくるのでございます。
「吉方位」「凶方位」という観念であります。

が、そこまで書き進めると、テーマが変わりますから、ここまでといたしましょう。

2023
01.26

陰鬱な雲がたれこめ、荒涼たる冬の、この、なだらかな上り坂の風景が好きであります。
「好き」
という言葉は似合わないかもしれません。
心のジグザグに、カチッとおさまるのでございます。

誰のどんな乱暴な言葉にも、
「いろいろだよな」
と包み込む余裕がうまれる風景なのでございます。

いま郵便局の赤い車が通り過ぎたところであります。
雪を踏むタイヤの音は、ベースギターのよーに脊髄につたわるのでした。

誰のどんなやさしい囁きにも、
「はははっ」
と笑って受け止められる素直さが宿る風景なのであります。

誰のどんな悩みの悲鳴にも、
「まずは温まれよ」
と、熱いココアをすすめる無が心に広がる風景でございます。

しかし、その風景に慣れてはいけないのであります。
長く眺めていれば、香水の香りが瓶から逃げてしまうよーに、普通の風景になります。
一年に一度、いや、そこに雪がなければいけません。数年に一度、この場所にたたずみ、あとはその記憶を反芻するのがよろしいのでございます。

心はやはり毛羽立って苦しむのが正常であります。心のジグザクが片方だけで悶えるのが丁度よいのであります。

そーしながら、実は、大通りの奥にあるラーメン屋に心を馳せているのでした。
「蘭丸…」