2015
05.25
こげな文集が納屋から出てきたのでありました。
小学校二年生の時のモノらしく、文集のタイトルは「ぼうりょく」。
よくこんな作文を提出し、教員もそれを受理したものでございます。
いまならば大変なことになっていたかもしれませんです。
内容もタイトルに劣らず、過激でございました、だれそれを泣かせたとかのバイオレンスで満ちているのでありました。
コクトーに「恐るべき子供たち」という作品がございまして、「へへぇ」などと映画化されたものを鑑賞した記憶がありましたけれど、なーに、自分の作文だって負けてはおりませぬ。
温故知新とはこのことかもですね。
良き時代だったのかもですが、イジメられている方はたまったものではございませんね。
が、もしかすると、原点はいまだに変わらないかもであります。
まだまだ手ぬるいので、ガンガン書かないといけないかもとも思い、元気がつくのでありました。
納屋には、もっと変なモノが隠されているよーな気がいたしますが、刺激が強すぎ、仕事が手につきませぬ。なので今回は、このくらいにして原稿にとりかからないといけませんです。
今回のモリオカは草取りだの来月の法事の手配など、妙に疲れているのでございます。
おっとと、「ぼうりょく」だけをご覧になると、50年後の私メの人格も疑われるのではと、つい弱気になってしまいます。
が、当時は腕力がないとバカにされる時代でして、上級生から呼び出しを食らうことも視野におき、勢力をつけているところを見せて、上級生たちの圧力をはじき返さなければならないのでありました。
では、次の作文をご覧いただき、私メにも自制心があったことを証明したいと存じますです。
運動会の作文であります。
冒頭の「それから見るのでした」は、自分は運動会が嫌いで、とくにダンスが大キライ、そして他の連中の演技を見るのが嫌いだという意味であります。そういうことが前のページにぶつぶつ書かれております。
どーです。
おとなしく他の学年の演技を見ていることがお分かりかとおもいますです。
どーです。自制心もあったのでありますし、現在とて、ちゃーんと備わっておるのでございますから、「三つ子のタマシイ百まで」などと言わず、ご安心くださいまし。
ふー、マズイものを見せてしまったよーな気がいたします。
いずれ削除せねばならぬかも、などとも感じておる次第でございます。
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2015
05.24
モリオカもずいぶんと開発されたモノであります。
18歳の時に、この地を後にした当時は、取らない道はなく、道という道のすべてを制覇していたつもりでしたが、その後、山を切り崩し住宅を建て、そのために知らない道もたくさん出来たよーであります。
それでもやはりモリオカは私メにとって自分の部屋のように熟知している土地なのであります。
地相をしらべる訓練は、やはり慣れ親しんだ郷里が最適なのかもしれませんです。
山龍は初心者にとって手頃な生きた教材でございましょう。
地相に関する本ばかり読んでいても、実際に現地に立ってみなければ、どんな秘伝書も役には立ちませぬ。
山龍に慣れてから、平地の龍をみる訓練を積むことは、本などからの知識より、ずっと貴重なのでございます。
龍脈はどこからどのように流れているのか。
たとえ間違っていても、一つか二つの仮説を立ててみるのがよろしいでしょう。
そして、
その仮説を、実際にその区域に行ってみて調べるのであります。
その地域に住む方々は、どういう職業が多いのか、金持ちなのか貧乏なのか、賢そうかそうでないかを肌で受け止めることで、仮説の真偽が実証されるというワケでございます。
なにごとも実践する姿勢が大切でありますが、地相や家相などは特にその傾向がつようございます。
実家に戻りましたら、
ケシの花が開花する直前でございました。
おもわず妖しい気持ちに染まり、せっかくの地相を忘れてしまったのでありました。
こちらの馳走には、ずいぶんとご無沙汰していると、足の指までつかって数えたり。
いちばん小さな地相は、手のひらなのでありましょう。
地相の本を開くと、きまって女性器に似た図柄で龍穴を解説しておりますが、あれはいけませぬですね。
とくに、いまそれらの絵柄をひらくのは、ちと危険ではあるまいかと、ケシの割れ目に鼻先をちかづける愚かな真似事をしてみたのでございます。
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2015
05.23
モリオカの自宅の草取りのあと、老母に、
「土淵に行ってけね」
と頼まれてドライブを。
土淵は、老母が65年前に新任の小学校の教員として勤めたところであります。
ものの15分もたたずに、そこに着いたのでありました。
ちょうど運動会の日でして、校庭にはあふれんばかりの小学生の声。
が、「ちがう」と老母。
「ぜんぜん違ってる」と65年前とは様変わりをしていることに愕然としていたのでございました。
さもありましょう。
変わって当然なのでございます。
諸葛川の支流が時のはざまを縫うように流れているばかりでございました。
地方都市というのは、うえを目指して変容をいたします。それは人の心の反映でございましょう。
京都などの古都であれば、史跡が残り、そこから記憶をたどることが出来ても、そうでない土地は新しさを求めるのでありました。
まぁんつ、ということで土淵小学校の周辺を二度ほど回り、「腹減ったね」と雫石へ。
雫石駅のなかにあるレストランが、しずかで良さそうだということで、また20分ほどハンドルを操りましてございます。
「変わらねのは家ばかりだえんが」
の老母のつぶやきに、いいやいやと心で首をふりました。
自宅だって大きく変わったのであります。
もっとじゃんごくさい雰囲気でありましたし、細かった庭木も老木となっておりますです。
で、雫石であります。
むぐっというほどの量。
不味くはないのでありますが、大量すぎるのでございます。
田舎の深情け定食とでも名付けたいハンバーグ丼。
いぜん、銚子での朝食に、てんこ盛りのメシを出された時、お給仕さんに「葬式定食ザンスか」と皮肉をいった、それ以上の深情け丼。しかも老母の和風深情けスパゲティの半分も寄越され、この世の地獄を味わったのでございます。
東京では「おいおい、これで二千円もするのか」と胸ぐらを掴みたくなるほどの少量も困りますが、大量すぎるのも迷惑であります。
残せば残飯として捨てられるだろうと思い、油汗をながしつつ胃袋に詰めましてございます。
「んでもなぁ……」
とふたたび老母は土淵小学校の話題。
「いえに当時のアルバムがあるから」
とつきあう私メも深情けなのでありました。
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