2022
03.20

スクールのない日曜日は貴重であります。
休日は外に出ても、たぶん人が多いとおもうので、極力、家の中で過ごそうと思っております。
とくに三連休で、お彼岸ですから。

雲を仰ぎながら、死んだ人を思い出すのは悪くない、休日の過ごし方なのでございます。
むかしの集合写真を眺めては、
「こいつも死んだ、これも死んだ、あっ、こっちは事故で死んだ奴だ」
数えていると、知り合いの半分くらいはこの世の人ではございません。

死に方もいろいろで、若い頃に死んだ知り合いは、事故でなければ自殺。

おそらく知らされていないだけで、生きていると思っているだけで、死んだ方々は、もっとたくさんいるはずであります。

そーして思うのです。

自分は、自分のいなくなった世界を見ているのだ、と。
鏡に映らない限り、自分を見ることはできませんです。

ビデオカメラでみる自分の不思議な事。
他人には、自分がこんなふうに見えているのか…。
怖ろしくもあるのであります。

お女性とお酒を飲んだりしている時、その相手である自分が空洞に感じる瞬間がございます。
自分という段ボールの箱の穴の中から、お女性を見つめ、声を聞いているよーな。

たまに気持ちが悪くなり、意識が遠のくことがございます。
そのとき、耳が遠のき、相手の声がプールに潜った時にきく鐘の音のように聞き取りにくくなるのであります。また視界も、カメラのレンズを絞るよーに、狭くなり、さいごには暗くなり、そのときには意識がございません。
「ああ、自分は死ぬところなのかもしれない」
臨死体験ぽいのであります。

そのときは、自分の肉体が「袋」なのだと感じます。

魂が飛び出すような体験まではしておりません。
ただ長い夢を見るのでございます。

意識が戻ると、倒れていたのは、この世の時間にすれば、ほんの一分にも満たないのですが、その夢は長く、意識の時間では丸一日ほど。死んでいった懐かしい面々に囲まれたりしていることがホトンドなのであります。みな笑顔なのでございます。

もう、明るい未来はなく、滅亡は直前までひたひたと迫っております。
疫病で死ぬか、投下された核で死ぬか、地震などの天災で死ぬのか。
かならず死が待っておるのであります。
そして、すべては望まない死に方でありましょう。自殺以外は。

お女性のグラスに氷とウィスキーを注ぎたしながら、
「こんやは、殺してくれないか」
明かり消し蝋燭に灯をともすのでありました。