2021
07.23

私メは、占いを信じる。
占いを信じるということは、他のものをほとんど軽視するということであります。

世の中には、いろいろな判断基準が用意されております。
自分は、統計学を重んじる。
オレは情報だ。
いいえ、あたしは〇✖宗教を。
科学を信じないで何を信じるのだ。

競馬を例に挙げると、絶対的に前走の成績から見れば、一着が間違いない馬が、なぜか成績がふるわないことがあり、だからギャンブルが成立するのであります。
成績不振を、天候に原因があるとか、騎手の仕掛け方が間違っていたと理屈をつけるのが普通であり、そこで納得するのでございます。

「運だな」
そういう声もございます。

人は、それぞれの信じるところを信じればイイのであります。

ところが、日本人は、信じる力が曖昧ではないかと、五輪の大失敗に学ばせていただきましたです。

情報を信じたつもりなのに、周囲からの、とくに海外から反対意見を唱えられると、たちまち鞍替えした行動になっているのであります。
信じる対象が脆弱であるために、周囲の声に右往左往してしまうのでございます。昭和の価値観だと指摘されても大慌て。差別的だとして怒ったふりをされると無抵抗に反省の素振り。「だからユダ公はそーされるのだ」と反論もできませぬ。あげくに原爆投下国にすがりつくばかり。「アメリカ人を殺せ!」の意識さえ消えているのであります。アニメばかり見ているからバカになったのかもですね。

「占いを信じる」
と申しましたが、四柱推命やら、断易やら、奇門遁甲で行動をし、たとえ、それらの占いがハズレたとしても、
「良しとする」
この信じ方であります。
おおあわてで別の分野を信じたりしない姿勢であります。

「自分の好きなモノのために裏切られるのならば仕方ない」
そーすれば迷いを遮断できるのであります。

例外はあるでしょーが、そしてリモートですから、十傳スクールの受講生の雰囲気を肌で直接に感じ取ることはできませんが、それでも、皆様は「占い」を学ばれていくうちに、「迷い」が薄められているよーな気がいたします。
占いのテクニックもそーでありますが、ときたまエロ話に混ぜながらの、占いの根底に潜む考え方が、迷いからの脱却の力になっているのでは…すこし僭越過ぎたかもしれませんけれど。

「コロナでも不安はありません。占いのせいでしょうか」
「むしろコロナ禍のいまが楽しいです」
ある受講生のメールにしたためられていた一文でございますが、占いを宗教と混同するのは大変危険で、また誤りなのではありますけれど、生活のバックボーンとすれば、これほど力強い味方はございません。

日本は丸裸にされつつあります。
虚飾がはがされ、じつはみすぼらしい幼稚な思想と、醜いほどの拝金主義だという真の姿が、このたびの五輪の大失敗をしたために見えてまいりました。
そして、それはイイことなのであります。

再起、再生はここから始まるのであります。

生きる判断基準を、占いで決定して間違いないと、私メは信じておるのであります。