2011
05.29

つらいつらい葬式でありました。

震災で亡くした従弟のお嫁さんの葬式なのでした。三か月近くになろうとしています。
悲しみは癒えるどころか、ふかく傷となって何倍もの重さとなっているのであります。

何年かぶりでネクタイを締め喪服にやりきれなさを包んで会葬したのでございました。

従弟はしばらく見ないうちに痩せて骨ばっていました。
釜石でいっしょにガレキ撤去を片づけをしていたころよりも痩せているのでありました。
あのとき車の助手席で、
「運命ってあるよね」
と、易者である私に語りかけたことを思い出すのでありました。

彼には過去に女がいたのであります。
そういうこともあっなぁ、と思い出すのでありました。

もう30年以上も前になりますです。
医者になりたての頃に従弟は患者と恋仲になりました。
が、両親は猛反対。
なぜなら、その患者は白血病だったからであります。死病。
反対を押し切って彼は患者と同棲しましたが、ついには亡くなったのでありました。
「もう結婚することはないよ。誰ともね」
と私にいったことを昨日のように覚えているのであります。

彼がいう運命というのは、自分の業のようなものでありましょうか。
人は同じことを繰り返すということを言いたいのでありましょう。
繰り返すというより、くりかえしてしまう…いいえ、運命というハンコは一定の周期で過去の出来事をなぞるのだと言いたいのでありましょう。
自分は、いちばん大切な人を失うことになっている…そういう運命なのだと言いたいのでありましょう。

ずいぶんな年齢になってから結婚したために、二人の子供はまだ小学生。どうするのでしょうか。すくなくてもあと20年。気が遠くなってしまいますです。

お嫁さんのお骨はしっかりしていて箸に重いのでした。

「死にきれません」
という声がお骨から伝わってくるのでした。

「あきらめようよ、もうあなたは死んでしまったのだから。あきらめなさい、心配せずにちゃんと死んでくださいね」
と語りかけ、骨壷から墓へとさくりと落とすのでした。

北原白秋の詩に

きみ帰す
朝の敷石さくさくと
雪よ
林檎のごとく降れ

というのがあったなぁと、暗い墓穴のしろい骨を見下ろしながらかんがえるのでありました。不倫を詠んだ詩なのですが、その詩をかんがえるのでした。