2011
09.04

画像は先週、京都を自転車でまわったときに立ち寄った古い喫茶店でちゅうもんしたかき氷です。

しつこいほどのトッピングであります。
悪女の深情けのようであります。

が、この時の悪女の深情け的なかき氷はとても元気が出たのであります。

普通は世話を焼かれたり、頼みもしないのに面倒をみられることを好みません。
冷たくされた方が楽なのであります。

しかし、ふと、今年の夏は色ごとがほとんどなかったことに気づくのでありました。
色ごとのないまま夏が過ぎていくようであります。

清潔な生活というのは、なんと淋しいことでありましょうか。

そういうことをおもいつつ、かき氷のうえにのせられた、さくらんぼをながめるのであります。

古い古い昭和の匂いのぷんぷんする喫茶店に同化したような私メなのでございます。濁った水槽のなかで泳ぐいち尾だけの金魚。いぜんはもっとちいさくて、しかしおおきくなったいまとなっては誰も可愛いといってくれない金魚のように、ただただ生きているだけのような気もするのであります。

生きているだけでいいんだ、なんてどこかの本のタイトルにありましたが、何か刺激がなくてはつまりません。

しつこそうな悪女のかき氷が手招きしているようであります。
いいぢゃないの、おたがいに淋しいんだから…と。

鎖骨をなぞった指を口に含み「ふふ、しよっぱい」とうわ目で、ワイシャツの肘のあたりの布地をいやいやするように引っ張られるようでございます。

夏が傾くと、なにか忘れ物したみたいな胸騒ぎがしてなりません。