2011
09.06

こんな看板を見かけたのでございます。

『修行中につき静粛に』

ですって。
ずいぶん偉そうでありますねぇ。

喧しくしていては修行の邪魔になるのでありましょうか。

静かだと、よけいな妄想がふくらんで、かえって修行にさしつかえるのは私だけでありましょうか。

また静粛にしろと紙きれを貼っていれば静粛にしてくれるとでも思っているのでありましょうか。
自分たちは、お前たちより高尚なことをしているのだから、という選民意識がぷんぷんですね。

無になるのは、真っ裸の女体を味わっているそのときくらいしかないような気がいたします。お昼から暗くなるのも気がつかないほど夢中になって快楽を貪る、その数時間ほど「無」である時間はありますまいです。

また受験勉強などは、喧しい環境で勉強した方が、本番の試験では実力を発揮できそうな気がいたします。

とにかく静粛でなければ修行できないというのは、もうそれは修行ではないのでありますです。

自分の心から心を解放し、「今」「今」「今」とその瞬間をいかに集中して過ごせるか。ここに裸女と交わるに等しい「無」が存在するのではないでしょうか。
ですから無は無ではなく「有」なのであります。
いや「雑」かもしれませぬ。
やはり「交」でしょうか。

座禅を組まなければ無になれないなんて嘘であります。
座禅なんてポーズであります。
無は快楽のなかにあるような気がいたすのでございます。

「もう、こんな時間ね」
「キミといると時間が経つのがウソみたいに早いよ」

無はコレでありましょうと、おもうのでございますです。

雑念のない関係。それが不倫だろうとなんだろうと、時間が瞬く間に過ぎ去るような気持ちこそ、その瞬間に無という純粋な気持ちを共有した証かもしれませんです。